誰にとって「妥当」なのか?

やはり今日のWinny開発者への判決にコメントしないわけにはいかないだろう。

マスコミは「有罪」であることをことさら書きたて、また当然ながら被告人や弁護人、支援者とも有罪とされたことに強く反発しているが、敢えて私はここで少し違った視点でこの判決をとりあげることにする。

検察にとっては、この判決は「無罪」とされたのと同等程度に、屈辱的であろうと私は思う。

検察が懲役を求刑しながら、罰金判決が言い渡された判決として恐らく多くの人の記憶にあるだろう事件に、経済学の教授であった人の「ミラーマン」事件がある。検察側がその権威をかけ、マスコミを煽動してのプロパガンダ攻勢で「犯罪」レッテルを貼りまくって臨んだ裁判であったが、その立証たるや、何ら証明に足らない「悪人だから悪いことをしたに決まってる」方式の陳述に終始していた。裁判官が罰金刑を選択したのは、「お前ら検察にも面子があろうし、俺もこんな事件で無罪判決なんて出そうものなら裁判官生命が無くなっちゃうから一応形式的には有罪にしておくけれど、有罪にしたけりゃもうちょっとまともに犯罪立証しろや(実質は疑わしきは罰せずだよ)」と結論したようにしか受け取れない。

ミラーマン事件」と同様、このWinny開発者に対する判決も、「きっちり有罪にするストーリーはあるのに、お前ら検察が無能で犯罪の立証がなされてないんだよ、ホケ」としたのではないかと思った。さらに朝日新聞に掲載された「判決要旨」とされるもの
http://www.asahi.com/national/update/1213/OSK200612130057.html
を見ると、裁判官が「有罪ストーリー」があったことを示しつつも、検察の立証が100%欠如しているためにそれを採用できなかったのだよ、と諭しているかのように読める。
(こういう記事の内容の詳細は極めていい加減なのだが、概要ぐらいは受け入れ可能だろう。)

ミラーマン」事件自体は(検察も控訴するべきネタを欠いていたのか)そのまま確定したが、案の定その元教授は、「今度こそ間違いなく誰が見ても有罪」な筋書きの事件に放り込まれた。(それが全くのデッチアゲだとか陰謀だとかとは私も思わないが、脚を確実になぎ払うべく狙われていたとしても不思議ではないと考えている。)

Winnyの開発者の場合、今回の判決文で、どうすれば有罪ストーリーを完成させられるかを示唆しているので、検察は控訴審でそこを徹底的に詰めてくるだろう。控訴審ではどういう弁護がなされるか、という点で、この事件はまだまだ興味深い。裁判を続ける当事者は、本当に大変ではあるのだが。