無能の証明

司法の見せしめ的なやり口は「一罰百戒」なんだそうである。
http://beatniks.cocolog-nifty.com/cruising/2006/01/post_1ddf.html

例えば警察は「検挙率」などでその能力を図られるのが一般的だ。犯罪があった場合、どの程度漏れなく裁けるかという指標という意味合いだろう。

しかし高い「検挙率」がどのように達成されているかというと、
・どんなに酷い被害を受けている人が申し出ても、それが検挙困難と見るや、絶対に被害届けも告訴も受け付けず「事件を認知しない」
・被害が著しく、マスコミなどに取り上げられ、否応なく事件化せざるを得なかった事案は、手近な人物を容疑者にして、大量の証拠捏造と自白強要と、無理やりな証拠認定で犯人化して、偽りの「検挙」をする(冤罪パターン1)
・行為者が明らかなグレーな事案(検挙が容易な事案)は、事件性がなくとも無理やりに事件にし、マスコミを動員して「凶悪事件」のイメージを植え付け血祭りにする(冤罪パターン2)

こうして見せかけの「検挙率」は保たれているが、そんなのがでたらめで、1つの事件の陰に100の検挙不可能な事案があることを司法の連中は知っている。

だから(マスコミまで利用した)「一罰百戒」などというものが、さも必要かのようなことを言わざるを得ないのだ。

「一罰百戒」は、その犯人当人への当罰性に見合った懲罰ですか?
「一罰百戒」して、その犯人の更生に役立ちますか?

「一罰百戒」は刑罰のあり方として完全に間違っているのだ。そんなものがあるのは、司法の無能を自ら証明しているに過ぎない。