コンテンツの消尽

電車男がまだエルメスとのデートについて2chで相談していたころ、私は無職だった。「中野人」のページから、そのスレッドにたどり着き、(時々だが)リアルタイムに彼らの関係が変化していくのを見ていた。彼らが付き合うことになった時には、その祝い気分を共有した。

その後「電車男」は書籍化され、映画化され、メジャー路線をたどる。コンテンツビジネスという側面から興味がないわけではないのだが、その中身を見たいとはこれっぽっちも思わない。私の中で「電車男」は消費し尽くされたのだ。それをどう料理したと言われても、もうなんの旨みも魅力も感じない。

またぞろ、”SNSmixi」が支える恋――オタクとキャリアの物語”
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0506/08/news041.html
とかいって、ネット話の書籍化が話題になっている。

この話の内容は、全く知らなかったが、では、私にとって読みたいという刺激となっているだろうか?否。
私の中では賞味期限切れなのだ。

コンテンツには「鮮度」があると思う。

……いや、鮮度って何だ?

コンテンツを、皆が一緒に読んでいるに違いないだろうと勝手に思う「共有感」の持続時間のようなものだと思う。
乱流の大きな渦のエネルギーが、カスケードして小さく分割され、最後には粘性消散で失われていく。その渦スケールのようなものだと思う。

その時間スケールは、著作権法が定める50年、70年といったものより、3オーダー以上小さい。ヤツラ(権利者)はコンテンツ(情報)は不変、普遍だと思っている。

だが、それは間違いなのだ。

知的財産「権」について、「権利」の消尽という概念は、既にあって、法律にも組み込まれている。一言でいえば、(ルータをいくつ介するかというような)ホップ数を元にしたTTL(Time To Live)に基づいて権利が消費され尽くされるという考えだ。
が、コンテンツ自体にも時間的、空間的、あるいはホップ数の方向に限界を持つTTLがあって、消尽されていくように思える。