「Free」とは?

フリーソフトウェアとは、「無料ソフト」のことなのか、「自由ソフト」のことなのか?

フリーソフトウェア運動の提唱者、R.ストールマンは一貫してFreeとは自由のことだと言ってはばからないが、それは真実なのだろうか。

著作権は権利取得に「お金」がかからないので、自由利用≒無料利用にすることができた。そのため、「フリー」は自由とも無料とも解することができるあいまいな状態であった。

だが特許は権利取得に高額な経費が必要なので、特許の世界では「自由に利用可能」は、「お金を払えば使える」を意味する。

ストールマンが特許につまずいている様を見ていると、やはり奴の言う「Free」は「無料」を前提にした仕組みでしかなかったらしいと疑わざるを得ない。

ところで……

例の 松下 v.s. ジャストシステム の特許紛争について、(私が大嫌いな)小倉秀夫弁護士が、「権利者商品と代替性のない侵害商品の製造・販売等の差止めを認めることによる不合理性」というちょこっと面白いことを言っている。
http://benli.cocolog-nifty.com/benli/2005/02/post_1.html

まぁいつも思慮の(とてつもなく)足らない小倉弁護士にしては、なかなかの着眼点と言えるが、案の定というか、やっぱりというか、詰めが甘いと思う。問題の本質は「差し止め可能」なことではないのだ。

ジャストシステムが、その知財を利用したいと思っても、(お金を払っても)利用できないという「自由の制限」(Freeの否定)を課してしまえる仕組みこそが問題なのである。

この「自由の制限」をもたらす知財制度の根本問題は、「独占を認めること」から来ている。知財の権利について誰かの「独占」が行われると、他者はその知財の有用性を知りつつものその知財を利用する機会(自由)を得る術は全くなくなってしまう。

私は、知財という権利システムに「独占を認めること」の必要性が本当にあるのか慎重に検討すべきだと思っている。これまで「独占」は知財概念の基本であっただけに、これを否定するとさまざまな問題が噴出するであろう。

しかし、「他者の利用を絶対認めない」から「高額なお金を払えば、(不承不承かもしれないが)利用を必ず認めなければならない」に制度を変えることは不可能ではないはずだ。

どうして、そんなことにコダワルノカと問う人もいるかも知れない。そんなときこそ私は答えよう。「自由のためだ」と。

さて、ストールマンとの仮想対話は続く。ストールマンは私にこう問うたね。
「お前は自由を金で売買するのか」
と。

今の経済社会の中では、お金がないと知財を扱う自由はないのが現状であることは、どうやら認めなければならないだろう。それが「正しい」ことなのかどうかは、まだ私にはわからない。

しかし、「自由」と「無料」をまぜこぜにしている状態から一歩前へ進まない限り、何も見えてはこないはずだ。再度「Free」を根本的に問い、その構造を見極めなければならない。